(私の視点) 自虐的同盟やめませんか 自他の国家主権の尊重を フミコ

2023/6/12

 

 戦後70年談話中での「経済ブロック」への二度の言及による英米など当時の超大国の責任の暗示など、「自虐史観」への批判者として知られた故安倍晋三元総理が推進した日米同盟強化路線は、安全保障上の自国の主体性を究極的に奪う、現在進行形の「自虐」歴史なのではないか、との疑問が拭えなかった。

 

 強い批判を受けた安倍氏の「台湾有事は日本有事」発言は、氏の志向というより、在日米軍基地の存在が両有事を架橋してしまう日米同盟の現実そのものの指摘とも考えられる。しかも、日本の参戦を適時に認識できないような法的構造をこの同盟は具えているのである。

 

 安倍氏がその成立に尽力した平和安全法制などの現行法では、「重要影響事態」で米軍への後方支援が、「存立危機事態」で集団的自衛権の行使が可能となるとされている。つまり、国内法では「存立危機事態」の段階で参戦の道が開かれる。後方支援の開始が参戦ではないというのも現実感覚を欠いた規定だが、それ以前に国内基地から米軍が出撃して交戦すれば、国際法的にはその時点で日本は参戦国となる。この国内法と国際法のズレにより、集団的自衛権の行使の是非を議論している時には既に日本国は参戦してしまっている、という主権国家としてあるまじき事態を迎える可能性がある。

 

 しかも、敵国側から見れば、日本は民族的共通性が相対的に乏しい非核保有国なのである。無謀極まりない戦争ではないだろうか? 「後退すれば必ず面目を失うとか、前進すれば必ず重大な危険に出くわすといった立場に身をおいてはならない」とのモーゲンソーの格言を想起したい。寺山修司風に言えば、「国捨つるほどの同盟はありや」である。

 

 そもそも、「一つの中国」の内政に干渉する権利を日本は一体いつ手に入れたのだろうか? 首都・東京の空すらも日本のものではない、という自虐的状況が他国の主権を侵害する他虐的態勢と表裏一体となっているのではないか。

 

 「核の傘」はオートマティックなシステムではなく、同盟国のために核報復を実施するかどうかは、米国政府が適宜に判断する、米国の国家主権に属する問題である。核報復の実施は「核の冬」の到来をもたらす米中全面核戦争へとつながる可能性があるから、その決断の前にはとてつもなく高い壁が聳えているものと考えられる。

 

 報復を請け負うという意味での「核の傘」の存在にリアリティーがないとすれば、残るものは、核兵器を含む戦力の均衡である。マリアナ諸島と韓国に米軍の基幹的な基地群が存在すること、米国の仮想敵国が「米軍基地なき日本」を攻撃する必要性は限りなくゼロに近づくこと、日本自身が抱える紛争の低強度性およびそれ故の解決可能性の相対的高さ、日本列島の「悲劇的ならざる」後方位置から考えて、勢力均衡の中で軍事的空白域を作らないことに努めつつ、非核武装の中立国として存立することは決して不可能ではないだろう。宏大な広がりを持つ海洋国家がバッファー・ゾーンとなることによって新しい地政学的状況を創り出せるのではないか。「核の傘」に守られているという虚構を脱して核廃絶に本格的に取り組むことも日本の安全を高める捷径と思われる。

 

 「1億総ドナドナ」の暗夜行路ではなく、トンネルの先に一条の光が射し込む方の道を選択してほしい。

 

 明るいほうへ 明るいほうへ(金子みすゞ)。

 

(1356字)

朝日新聞への投稿(2023年3月27日投函、2023年5月3日メール送信)〕