国家主権意識の回復と日米同盟の広義解釈のすすめ(続)

 「〔米国の〕核の傘があるじゃないか。」と言う向きもあるかもしれないが、「生ビール」の話ではないのである。

 同盟国のために核報復をおこなえば今度は自国がさらなる核報復を蒙る。それにもかかわらず同盟国への「責務」を果たすのか? これは全く米国の国家主権に属する事柄であり、日本のための報復の実行を米国に強要する法的根拠も物理的手段も日本は有していない。仮に「核の傘」が条約化されても、法人としての国家には、人類共通の価値としての「自国民ファースト」を選択する自然権が認められるであろう。「核の傘」は米国の国家主権否定の仮想の上に成り立つこの上なく淡い幻想なのではないだろうか。

 核兵器はたとえ1発の使用でも相手側に耐えがたい苦痛をもたらすという特性のゆえに、国の大小を問わず核保有国間の抑止は成り立つ。と同時に、その特性は「核の傘」の不確実性の重大な要因であるとも考えられる。核抑止力の分割=「核の傘」の提供は本来的に極めて非現実的な構想なのではないだろうか。

 日本と米国の国家主権の否定のうえに成り立つ周辺有事への日本の参戦は、敵側から見れば自国の内政ないしは内戦への軍事介入=自国の国家主権への侵害に外ならないであろう。日本は一体いつそのような権利を手に入れたのだろうか? 民主主義擁護のための「国境を越える義務」の遂行は超大国だけに許される贅沢品であることを肝に銘じなければならない。